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↑1978年に松野氏が熊本の高遊原分屯地で撮影された西部方面ヘリコプター隊のUH-1H/41608/41606 
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↑ 1978年高遊原に並ぶUH-1H 4機 UH-1H/41335/41610/41608/41606。1971年4月に開港した新熊本空港は、B-727等の発着が可能な2500m級滑走路を持った空港だった。西部方面航空隊の司令部は開港のタイミングで高遊原に移動した。UH-Hを擁する西部方面ヘリコプター隊の主力は目達原基地にいたが、訓練エリヤの広がる高遊原分屯地でもみる事は出来た。
↑ 上3枚の写真は何れも松野氏が大阪の八尾駐屯地で撮影されたUH-1H/41612/41613/41621である。この頃は、方面ヘリコプター隊のUH-1H/Bの定数は、20機であったので、八尾でも多くのUH-1Hを見る事が出来た。1990年代以降OH-6の減少と共に北部方面4個師団だけでなく、全国の師団飛行隊にもUH-1が配備されるようになり、また四国の旅団化、沖縄の旅団化の新編、第12空中旅団の開設での新規ヘリ配備などで、方面ヘリコプター隊の定数は半減となってしまった。
↑ 同じく1978年10月の明野での展示飛行の様子。奥は教育支援飛行隊所属のUH-1H/41624
第4次防衛力整備計画(1972~1976)の初年度である1972年(昭和47年)に最後のUH-1Bの納入が終わり、翌年の1973年からH型の納入が始まっている事から、H型の取得予算化は第三次防衛力整備計画(1966~1971)の最終年度1971年(昭和46年)前後から始まっているはずである。UH-1Hを防衛計画の発注ベースで見れば、恐らく最初の発注年度である1971年から1979年(昭和54年)までに62機を発注済であったので、初期の発注ベースはスローであったようだ。最終発注年度は1990年(平成2年)度予算の8機発注で終了しており、1971年から1990年まで約20年間に渡ってH型の発注が続いたことになる。最初の10年は年間7機前後のペース、56中業以降毎年8機前後のベースで発注された。そして昭和時代の終わりと共にH型の発注も終焉に向かっていき、H型改(後にJ型と呼称)の導入を経て平成5年からは正式J型の発注に切り替えられる事になる。(UH-1の場合、通常発注年度の翌年に納入されることが多いようだった。)
 前述の通り20年間に渡りUH-1Hは発注されたが、H型の予算要求の後半戦における1984年(昭和59年)の時点でもB型が50機以上現存しており、H型とB型は各方面ヘリコプター隊で長い間一緒に使われていた事は分かる。B型の用廃のペースを考慮して1980年代以降、UH-1B/Hヒューイヘリの陸自での保有総数は常に130機前後を維持出来るよう予算要求をしていたはずである。それは、一部の師団直轄ヘリや教育用ヘリも含め北部40機/東北20機/東部20機/中部30機/西部20機の必要数を維持する為だった。
↑ 1978年10月の三沢基地航空祭に展示された東北方面隊のUH-1H/41614
↑ スライドドアを開けているため所属が判らないが、UH-1Hの4号機。UH-1H/41604
Wings
↑ 1979年 キャンプ富士訓練場で飛行訓練をしていた東部方面ヘリコプター隊のUH-1H/41617
↑1978年に松野氏が熊本の高遊原分屯地で撮影された西部方面ヘリコプター隊のUH-1H/41610。1971年に熊本空港が市東部から阿蘇山麓の菊池郡に移転した際に、空港と共に飛行隊も移動して、此処に分屯地が開設された所で広い敷地と新しい設備、それに訓練エリアにも恵まれた環境だった。それまでの旧熊本空港は市中心街から数キロの近さにあり健軍飛行場と呼ばれていたが、私の父が最初に九州に転勤になった時は、健軍飛行場での勤務でまだまだ古い陸軍飛行場の体を残した場所だったと記憶している。当時旧熊本空港は1200x300の滑走路があったが、全日空の双発プロペラ機(恐らくフォッカー・フレンドシップ)ぐらいしか見かけなかった。空港としては市内にあまりも近かったため、将来の民間機のジェット化、大型化などを考え、移転を計画され1960年開港から僅か11年で新空港に移転している。 
↑1978年10月明野駐屯地の航空祭で松野氏が撮影されたUH-1Hの1号機。UH-1H/41601 明野の航空学校 教育支援飛行隊所属
このページ(Page-2)は全て松野氏撮影の作品を展示して行きます。松野氏は学生時代実家の博多と大学の有った京都を行き来する際に岩国や周辺の航空基地を探索されており、明野や八尾駐屯地にもよく行かれたそうである。